数年ぶりに都心を訪れた。
欲望と金がうごめき、承認欲求に飢えた若者を食い潰す、蟻地獄のようであるべきはずの場所。数々の夢が一瞬の光となって散り、星を抱く宇宙のように混沌として、実態を持たない闇のような場所。都会とはそういうものだと思っていたが、改めて見てみるとそれは、どこか雑然とした、とりとめのない平凡な人間の人生そのもののような場所に見えた。
常に輝かなければ、価値を持たなければ生き延びられない。そういう世界も、確かにあった。特に飲食店がそうで、奇抜か、あるいは洗練された風を装い、SNSでバズることを宿命としているかのような店々が一等地に連なっている。私がかつて住んでいたころに流行っていた店の多くは消え去り、同じようにどこか違和感のある新しい何かが入っていたが、街全体としてはかつてとは何も変わらないまま、ただ人間と同じように歳を取ったような感じが漂っている気がした。
私は、十八歳から二十三歳にかけて、東京と横浜に住んでいた。なぜなら北関東の田舎に住む若者にとって、地元を出ていくとなればそこしか選択肢を知らなかったし、未成年の人々の間にはなぜか、都会に出てこそ一人前の人間になれるというような風潮が、空気に酸素が含まれているのと同じくらい当たり前に存在していたからだった。
私を含めた多くの若者たちは、田舎のコンビニに集まる羽虫のように、都会のネオンが纏う甘美な光に誘われて、たいして考えのないまま漠然と幸福を求めてこの街にやってくるのだろう。そして少数の者だけが確かな成功を掴み、残りの多数は、そこでただくたびれて歳を取っていくのか、あるいは田舎に帰っていくのだろう。
私は、田舎に帰っていくほうのクチだった。それでも最後まで、どれだけ汚れても、都会にしがみつこうとはしていた。都会に来て初めて感じた自由や喜びを手放したくはなかった。何も成し遂げず、何者にもならずに田舎に帰るというのは、人生の敗北宣言をされたも同然だったからだ。しかし、資金繰りが上手くいかなくなったことと、遂にはストレスで完全に身体を壊してしまったために、私はそのとき全てを捨てて、身一つで田舎へ帰ったのだった。
使い捨て社会
結局、私が都会にいた間に得たものは何もなかった。それどころか田舎に帰ったころは、まるで追いはぎにでもあったかのように、持っていたはずのものまで奪われてしまったような、ぽっかりと穴が空いたような気持ちを何年も抱え続けなければならなかった。
私が都会で学んだ唯一のことは、現代は使い捨て社会であるということだった。中心にいる者たち、たとえば大企業の本社勤めといった人たちは、福利厚生がしっかりしていて給料もそれなりに貰えるので、都会での生活も成り立たせることができる。しかしその末端にいくほど、子会社や中小企業になると給料も低くなり労働環境も悪化してブラック企業と呼ばれるようなところが増えてくるし、アルバイトや日雇い労働者という段階になってくると、最低賃金から数十円~数百円という違いのなかで生きていかなければならない。そして最低賃金は、最低限の生活を成り立たせる分は稼げるかもしれないが、逆に言うと最低限の生活しか送ることができず、結婚や子育てができない使い捨ての人間として社会に飼い殺しされるだけの存在に成り下がるのである。
かといって、大企業だから楽で、日雇い労働者だから苦しいというような理論は間違っているし、努力がどうこうという話もここでは置いておく。重要なのは、ファストフード、ファストファッション、使い捨てプラスチック製品などのように、現代社会は安価で便利なものに溢れ、それらの多くが短いサイクルで消費され、廃棄されているということ。それと同じように、人間までもが、交換可能な部品のように扱われ、使い捨てられる時代になっているということだ。(ここでの趣旨とは逸れるが、現在非正規雇用で働いている人たちが皆、老衰で死ねば、次のその役割を継ぐのは正規雇用で働いていた親たちの子どもである。そしてその子どもたちもまた結婚できずに死ねば、最終的には社会を維持していく存在が誰もいなくなる。これが現在の、少子高齢化問題でもある)
私はずっと、アルバイトで生活していた。中卒で学歴がないので当然だし、資格もいくつか取ったがあまり意味はなかった。正社員になった、その前段階の契約社員で働いたこともあったが、実際のところは賞与も全くないかないも同然だったし、そんな微々たる給与ではアルバイトと大して変わらないどころか、時間だけがどんどん奪われて家畜のような生活しか送れないと気づき、私はアルバイトに戻らざるを得なかった。そんな選択をした自分を、当時は賢いとも思っていたし、むしろ自由であることに優越感さえ感じていたかもしれない。ただし、そうやってでも自分の自尊心を納得させなければ生きていかれなかった、というのは確かにあった。結局は段々心身を壊すようになり、最終的にはいつでも働けていつでも休める日雇い労働者へと成り下がったが、その終末に待っていたのは、硝煙の漂う焼け野原のような破滅でしかなかった。
都会にはなくて、田舎にはあるもの
都会での生活は、今思えば借金して遊園地へ行くようなものだったような気がしている。
都会には、確かに夢があった。そこら中には、自分を飾り立ててくれるために存在しているかのような服屋があり、人生をドラマチックにしてくれる喫茶店や花屋や歴史のある公園なんかがあった。オフィス街のガラス張りのビルたちは、スーツで身を固めた自分を眩しく反射しており、まるでこれから大業を成し遂げる、それはそれは立派で価値ある人間であるかのように演出していた(実際は、しがない会社に、しがない人間が、ただ面接を受けに行っただけだったのだが(おまけに軒並み不採用だった)。)
しかしそれは全て、私のものではなかったし、ほんの一部でさえ私のものにすることもできなかった。たとえフリーターとして、あるときはビルの清掃マン、あるときは飲食店の店員というように、都会の中心で煌びやかな生活を送る人たちの影でしかなかったとしても、それでも自分は都会の人間の一員であると信じていた。休みの日に流行りのカフェを訪れたり、最先端とされる街を歩いてその空気を吸えるだけでも、至福の時間だった。だけど今考えてみると、そんなものは焼肉屋の裏通りに面した換気口の下でご飯を食べるようなものでしかなかったし、イソップ寓話の都会のネズミは全く例えにはならなかった、あえて言うならばゴキブリ程度の存在でしかなかったというふうに回顧できる。
結局私は、貴重な人生の若い時期と、フリーターとして稼いだ僅かなお金と(田舎に帰った時点ではマイナスになっていた)、夢と希望、個人として尊厳のある生き方、自尊心、そこでできた全ての友人、趣味(旅行と英会話と友人たちとの楽しい時間と、海を見ること)、全てを捨てて(心境としては奪われたに近かったが)田舎へ帰ったのだった。そしてそのとき、私はそれを戦略的撤退なのだと思いこむようにした。
一人暮らしと、文筆家になるという夢を追いかけるのは、両立が難しいというのも本当だった。なぜならそもそも生活自体がままならないので、夢のための努力というのも中々やる暇がなかったのである。そのため、私は都会に全てを捨ててきたのだから、代わりにこれからの人生は夢のために捧げようと決意をした。夢のための努力に時間を費やすならば、当然フリーターでいるしかない(正社員だと時間と心身の余裕を持てない)し、フリーターでいるということは、最低限の生活を送る以外の全ての可能性は閉ざされているというのも都会で身をもって学んでいたので、私は身の程をわきまえるために(過分な欲望を持たないために)、自身を夢(あるいは神)に献身する修道士なのだと考えるようになった。
田舎での生活は、意外にも都会での生活とほぼ何も変わらなかった。多くの日々は、働いて寝るだけでしかなかった。ただし実家暮らしのおかげで、一日中創作活動に充てられる日というのを沢山持てるようになった。時々はカフェや山のうえにある景色の良い場所に行って心を落ち着けたりしていたが、そのときにかかる費用は、都会でのそれよりも安いうえに、食事は新鮮な食材を使っているので量も多くて美味しかった。仕事は都会よりも賃金は安かったが、広々とした土地と自然に囲まれているおかげか、人々はみんな都会よりも穏やかでのんびりとしており、仕事でのストレスはいささか低くなったように感じられた。
何者にもならなくていい。ただ自然の恵みに感謝して、生活するという営みに集中できる環境が、田舎にはあった。都会では、欲望を持つことを強要されているとすら思える雰囲気すらあったが、田舎には何もないので、そもそも欲は持てないし持つ必要もなかった。強いて言えば、美味しくて身の詰まった農作物が手に入りますようにということだけを考えていればよかった。都会にいた頃は、完全栄養食や冷凍のお弁当ばかりを食べていた私にとっては、ただ蒸かしただけのかぼちゃがご馳走となって出てくる生活は、これまでなら想像もできなかったし、究極に満ち足りた生活であるとも言えた。
しかし交友関係となると、田舎でも話は別だった。一緒にどこかへ行ったり、体験や話題というのを共用する必要があった(そもそも、人間関係とはそういうものなのだが)が、そういうことをするにはちょっと値の張るカフェに行ったり、市街地や都心へ出て金銭を使った遊びというのする必要があるので、お金もないし、SNSもやらないテレビも見ない私は友だちを持てなかった(作ろうとしなかったと言ってもいいのだが)。時々寂しさを感じることもあったが、私は前述のとおり自分を修道士だと思っていたし、夢のために努力する生活は山籠もりの修行のようなものだとも思っていたし、都会での生活を楽しんだことのある身だから人生という舞台から隠居した身であるとも考えていたので、孤独であっても不満はほぼ感じていなかった。
再び都会へ
最終的に、私のなかで都会とは、消費社会の権化であるという分類になっていた。人も街も全てが虚飾であり、生活の本質とは田舎にあるのであって、まやかしの舞台で虚栄心を満たそうとしている都会の人間は馬鹿だとすら思っていた。それが、都会に敗れた者の負け惜しみであり、ないものねだりの裏返しであるということは否定しない。それでも田舎に帰ってからの約四年間、都会に価値を感じなかったので、冠婚葬祭などの必要に迫られた以外に一度も田舎を出ることはなかった。
これから先も、もう二度と都会に行くことはないだろうと思っていた矢先のことだった。私は突然、ペリーが来航してきたときのように、閉ざされた心を開港する必要に迫られたのである。
始まりは二年前に遡る。私は三年前から、これまではブログのような文章しか書けなかったのに、突然小説が書けるようになった。才能が目覚めたというよりは、自分の表現したいことがこれまで通りのやり方では限界があって、それを超えるために開拓したというのが正しい状況である。それからは、創作活動の主体を小説に変えて、人生のなかで最も苦しかったことや傷ついたことを、小説で表現するようになった。しかしそのような自己憐憫のような表現ではすぐにまた壁にぶち当たり、私はしばらく一時創作を控えて乙女ゲームの二次創作をやるようになった。自分が思っていたよりも読者の反応が良く、そこで私は誰かに喜んでもらうために創作するという喜びを知った。そしてそれが、二年前から構想を始めた四部作の小説づくりに繋がっていった。
私はずっと、どうして人生そのものには教科書のようなものがないのだろうと思っていた。例えば、お金に愛される方法とか、株で儲ける方法とか、人を動かす心理術みたいな自己啓発本は既に世のなかには沢山ある。だけどそれは、読者にとって耳障りの良い言葉を並べている、悪く言うと薄っぺらくて低俗なものでしかないと私は思っていた。そんなことよりも、友だちに裏切られたときや、夢が破れたとき、人生が理想とは違ったとき、それによって負った心の傷や苦難を、具体的にはどう乗り越えればいいのかということが知りたかったのだ。しかし自己啓発本はどちらかというと勝者による成功のための指南書であったし、純文学やエンタメ小説は、傷口に自分で塩を塗って憐れに見せるだけのような感じがして好きではなかった。しかし私はマハーバーラタというインドの叙事詩であり、教養小説とも呼べる存在に出会い、私はこういうものが欲しかったのだと初めて気づいたのだった。しかし、現代版のそれらしきものはほぼ存在しなかったので、自分の手でつくろうと思った、それがこの四部作を手掛けるきっかけになった。
これを読んでいる人には、ただ四部作と言われても何のことかさっぱり分からないと思うので説明すると、私は十代前半から後半、二十代前半から後半、三十代前半から四十代、五十代から六十五歳辺り、の四つの段階に分けて、五種類の人間が現代日本でどのように生きてどのように傷つくのかという群像小説を書いている。エンタメ小説でもあり、教養小説でもあり、大河小説とも言えるもので、発案の段階では息巻いていた私だったが、結局初期の構想だけで半年はかかり、一年で四部作全てを完成させるはずが、第一部だけで完成までに二年がかかったのが今年の話である。今となっては、手に負えるか分からないものを背負ってしまったとも思うし、第二部の構想を練り始めてから既に二ヶ月が経つが、まだほぼ白紙の段階で悩まされている。
話を元に戻すと、その小説の第二部の舞台が東京で、想像だけでは限界があると感じたので、苦肉の策として現地へ足を運んで取材をすることになったのである。
本当は人ごみが苦手だし、遠出はストレスになるので嫌だった。敗退した都会に再び足を踏み入れれば、あの頃のみじめな気持ちも蘇るかもしれないと怖かったし、何よりお金がないのでこんなことをしていいのかも分からなかった。そもそも都会に住むということ、空気を吸うということ自体が贅沢なことだと思っていたのだ。
そんなこんなで、再び都会を訪れるようになった。一回だけでなく、既に何度も足を運んでいるし、確実なアイディアが掴めるまでこれからも何度でも行く予定だ。
年間数十万円も書籍にお金を使っているくせに、都会に行くにはそれ以上にお金がかかると思っていたが、片道数千円の電車代は思っていたよりも大したことがなかった。人食いお化けのような巨大生物『都会』も、実際はあらゆるところに老朽化の影が見られ、人々が生活を営んでいるだけの、田舎とは一風変わっている人生の舞台装置でしかなかった。一番恐れていた、私という存在を否定されるということ――、金もない、何者でもない私には息も吸えないのではないか――、というのは何も問題はなかった。ただ、大学の敷地内やオフィス街を歩いたときに、ここの属性ではない自分がいてもいいのだろうか、ということだけは気になった。
電車の車窓や、街を歩きながら、かつての様々な出来事や想いが自然と追想された。あのときのワクワクや高揚感と、今の齢を取った自分の落ち着きようを比べて物悲しい気持ちにもなったし、沢山の人との出会いや思い出、自分の人生をコントロールできているという充足感も思い出して、何となく胸が締め付けられた。しかし何よりも驚いたのは、捨てたはずの欲望が、あの頃に叶え、同時に手に入らなかったものでもあるものが、自分のなかで再び沸々と湧いてきたことだった。
捨てたはずの欲望と向き合う
四年前、田舎に帰ったあの日、首都高速道路で背中へと流れていくビル群を眺めながら、私は全てを捨てたはずだった。仏教では、執着は苦しみの原因であると説いているのだから、楽になるために執着を捨てることに迷いはなかった。
それなのに、一体なぜなのだろうか。四年ぶりに都会に訪れた私が感じたのは、鉄分不足で氷が食べたくなるときのような、今までとは少し違った、痒いところに手の届かないときのような、そして正体の分からない欲望だった。そしてそれだけではなくて、都会という舞台装置のなかを歩いて、少しの自信を取り戻したと同時に、人生の主導権を取り戻したいというような欲望も湧いたのだった。かつてのように、大勢の友人と飲み会やどんちゃん騒ぎをしたりとか、高級ホテルのレストランでアフタヌーンティーをしたいというようなわけでもなくて。ただもう少し、自分らしく生きてみたいというものだった。
田舎で暮らした四年間、私には欲がなかった。なぜならそれらを捨てたからだ。私のなかにあるのは、優れた作品を完成させること、ただそれだけで、毎日が創作者として生きるための修行だった。だから都会に出て久しぶりに欲望を感じて、それがそもそも欲望であるということに気づくのにも時間がかかったし(分からないのでモヤモヤした気持ちを抱えているだけだった)、自分にも欲があったのだという事実に困惑していた。
そして分かった二つのこと。それは、生きるとは欲することであるということと、捨てたはずの欲望たちはまだ終わっていなかったということ。私が今回感じた欲望が、かつて抱いていたものと全く同じではないのは、それは欲することを捨てたこと自体が、人生の主体性を捨てる行為だったからなのではないか。都会を訪れたことで、眠っていた欲望が再び湧きだしたのは、人生がまだ終わっていないからではないか。
私は再び欲望を感じたとき、それはまた都会でひと花咲かせたいからではないか、と勘違いしそうになった。だけど、十八歳の私なら勘違いしただろうが、二十七歳の私なら客観的に観ることができる。かつての自分ならば、消費行動に欲望のはけ口を見出していたが、四年間の隠居生活(あるいは修行生活)によって、それは重要ではないと分かっている。
しかし結論としては、主体性を持って生きるとは何なのか、そもそも何を欲すればいいのというのは分からなかった。それを、これからの取材旅で見つけていくつもりだし、そういう意味で、「捨てたはずの欲望と向き合う」というタイトルになった。今後、もしそれを見つけられたならば、これの続きとして書きとめようと思う。








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