私の言語の限界は私の世界の限界を意味する

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人間の限界とは一体どこで決められるのだろうか。それは言語である。言語を使って思考する限り、それは常に人間の限界を指し示している。全ての生き物は、意志を持つ限り自由の下にある。お金や生まれた環境、人間かそれ以外に生まれたということすら選択肢の一つに過ぎない。しかし、一度言語を使って思考し会話をすれば、そこには必ず限界が存在しているのである。

私と同じタイミングで語学学校に入学し、同じ3ヶ月間滞在する予定だった韓国人が予定を切り上げて2ヶ月で帰ることになった。理由を聞いたら、「自分の能力の限界を感じたから」だと言った。私は今、耐え難い息苦しさに悩んでいたが、それは彼女と全く同じ理由だったのである。

語学留学とは、戦いである。私が親しくしていた生徒の1人が、「私たちは練習にきているんじゃないのよ、試合をしにきているの」と言っていたのだが全く同感だった。今までに自分の国で学び積み上げて来たものを、応用し発展させるのが留学である。だから行けばなんとかなるだろうと思っている人は、留学に来てもいつまでも話せるようにはならないし、積み上げたものが小さい人ほど早い時期から停滞期に悩まされることになる。最近は留学期間がそこそこ長くなってきた者同士で悩みを吐露する機会も多かったのだが、どうやら多くの人が2ヶ月前後で停滞期やストレスの限界を迎えているようである。

私も最近は、今までとは違う理由でショックを受けることが多かった。以前は、喉元まででかかっているのに単語が思い出せないとか、理解しているのにうまく文法が使えないとか、できるのにできないフラストレーションで悩むことが多かった。でも今は、言いたいことがあってもそれを表現する単語が全く思い浮かばないとか、そもそも知識がないので何かを感じてもそれが何かすら感知できないとか、自分の表現できる世界があまりにも小さいことに度々ショックを受けるようになった。それに、英語で話すことへの抵抗が減ってきたからこそ、うまく話したつもりなのに、微妙に相手に伝わらない時の絶望感は辛いものだった。

自分の気持ちを表現できないことも、それを相手に伝えられないことも、全ては私自身のせいだから。私の知識や能力が足りないせいで、私は不自由な世界に囚われていた。そして、この2ヶ月間真面目に努力してきたからこそ、私の持つ潜在能力の限界にすでに到達していて、これ以上の努力を持ってしてもできないことがあるのだという、現実に直面しなくてはならなかった。

私はこれらの現実を見たとき、ウィトゲンシュタインの「私の言語の限界は私の世界の限界を意味する」という言葉を真っ先に思い出した。お金があるかないか、時間があるかないかは別として、私の中に勇気と力がある限り、私は世界のどこへでもいくことができる。しかし、私は世界のどこへでも行けるのに、どこへ行っても世界の限界と直面し続けることになる。私が私である限り、世界は常に限りがあって、私は不自由の中を移動する存在でしかないのである。

しかし、その限界を前にしながらも努力し続けることは無駄なことなのか、不自由の中を移動することは不自由なのかどうかについては、私は沈黙しなくてはならない。それを定義するのが私自身である限り、その問いを言い表すこともできない。

「語り得ぬものについては、沈黙せねばならない」のだから。

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この記事を書いた人

月光のアバター 月光 中卒フリーター

高校を三回中退し、精神科の閉鎖病棟に二回入院し、二十回以上転職した人です。最近は小説を頑張って書いています。

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