お金が無いという生き方(お金とは何だったのか)

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 私はずっと、お金がなかった。ただし、一般的な中流家庭で育ったので、お金を稼げなかったと言うほうが正しいかもしれない。どうしてそうなったかという詳細については割愛するが、十年以上に渡るお金の無い人生という経験から感じたこと、学んだことを、今回はまとめてみようと思う。

目次

お金とは何か

 すべての物がお金を介してやり取りされるようになった現代では、お金は資産であり、生きるための食事やインフラそのものでもある。また、特別な体験や人生の可能性を広げるための手段でもあるし、ときには人間としての価値を現すこともある。

 一方でお金を得る方法としては、多くの人は自ら生産する手段を持たないので、会社に所属し自分の提供した労働力に対して見返りとしての給与を貰う。ただしそれは必ずしも正当な額とは限らないし、社会情勢の変化によってお金そのものの価値が元々よりも高くなることもあれば少なくなることもある。また、お金で得られる商品や体験なども、それを販売する人の都合や社会情勢によって、本質的な価値が上下することもあれば、それ自体は変わっていなくても価格が上下することもある。

 お金というのは、種類の違う物々を取引するにあたって、共通の指標となる便利な道具である。例えるならば、それぞれ母国語を持つ外国人同士が、英語を使ってやり取りするようなものだろう。しかし、日本に英語をネイティブレベルで使いこなせる人があまりいないのと同じで、実は多くの人が、お金の本質を見誤ったまま何となくで使い続けているのかもしれない。

 そもそも先に述べたように、お金とは数字という嘘偽りのない共通の言語を使いながらも、様々な事情や側面によって変化する生き物のような存在なのだ。まずはその形を捉えるために、次の章ではお金が無いとどうなるかということについて考えていく。

お金が無いとどうなるか

 お金が無いということは、すなわち色々なものが無いということと等しい。なのでここでは、お金が無いことによって手に入らなかったものを挙げてみる。

①やりたいことができない

 人間が最優先すべきは生き延びることなので、お金が無い(少ない)場合、資産や収入の大半をそれらに充てる必要がある。そうなると欲しいものが買えないし、どこにも出かけられないし、やりたいことができずに、はけ口の無い欲望がどんどん溜まっていく。そもそも欲望とは、何かを欲しいと思う気持ちや不足感から来る本能的なものなので、心が「何かが足りていない」という状態になり、強いストレスや焦りを感じるようになる。また、生存のためだけに生きている状態が続くと、自分の人生をコントロールできるという感覚が失われ、無気力になっていく。

②社会と繋がれない

 お金が何かを体験するための手段でもあるということは、あらゆる体験の場でもある”社会”そのものと接続できないということでもある。友人と遊んだり恋人をつくったりすることはもちろん、飲食店で誰かが作ってくれた食べ物を味わうという体験も、物を買うときに店員と話すという体験もできなくなる。人間は集団や共同体を形成しなければ生きていけない社会的動物なので、社会に属している感覚が薄くなると、心身ともに大きなストレスを感じるようになる。疎外感や孤独を感じると、脳内で「痛み」を感じる部位が反応し、ストレスホルモン(コルチゾール)が上昇するほか、鬱病や、ストレスによる健康被害で死亡リスクも上昇する。

③生存への危機感

 これはほぼ全ての人が感じていることだと思うが、景気悪化のニュースや給与明細や貯蓄残高を見てまず思うのが、明日食べ物が無くなるかもしれない、という不安である。主産業が農業だった古代とは違って、現代ではほとんどの人が自分で食料を調達するという能力を持っていないので、お金が無いということは即ち死ぬということに直結している。お金を沢山持っている人でも、事業が立ちいかなくなることや、社会的立場の喪失に対して不安を感じているはずである。飢餓への恐怖も、周囲より優位に立ちたいという「地位財」への欲求(マウンティング)も、同じく生存本能であるため、本能的な恐怖やストレスを感じるのは当然のことである。

お金が無かったことで学んだこと

 お金が無くて嬉しいとか幸せだという人はこの世に一人として存在しないだろうが、例に漏れず私もまた、お金が無いという苦しい人生を送ってきた。不自由感、無力感、焦りや失望。自分の人生をコントロールできないという感覚は、自分自身を責めたり運命を呪ったりするだけでなく、時として他人や社会に対する恨みや怒りへと変わることもあった(それによって実際に何かを害したわけではないことは明記しておく)。

 努力してもほとんど何も変わらないばかりか、社会情勢という波にただ翻弄されるだけの自分が憎かった。何かを成し遂げたくてもできないか、あるいは社会がそれに対して価値をつけなかったので、私という存在は、長年道端の石ころ程度のものでしかなかった。

 精神的な満足感や内向的な生き方ならば、お金や社会によって左右されない真の幸福を見出せるだろうと思っていたが、いくら悟りを得ようが現実の苦しみは変わらなかった。苦しい、苦しい、苦しい。自分はこんな風に腐っていくべき人間では無いのにとか、誰も自分を見てくれないとか、ただ幸せに(自由に)なりたいだけなのにとか、答えのない苦しみや疑問は、私の人生の傍らに常に居座っていた。

 二十歳くらいのころ、今よりもっと若かったころは、そんな意識が最も強い時期だった。今になって思えば、それは若さという宝物から来る、生きることへの欲望(エネルギー)だったのではないかと思う。ホルモンの乱れが落ち着き、体力や気力が少しずつ減少し、社会とはどういうものであるかを分かり始めた今では、苦しみの本質は変わらないものの、それ自体のウェイトもまた減ってきているようだった。そうして心身ともに落ち着いてきて分かり始めたのは、「苦しかったけれども、なんやかんやあったけれども、今まで生きてこれたじゃないか」ということだった。

 確かにお金は生存に直結しているが、一方でお金が無いと人間としての存在そのものを否定されるかというと、そうではなかった。お金が無ければ友人も恋人も子どももつくれないし、何の体験や社会参加もできないし、場合によっては最低限の衣服や食事も用意することができずに、人としての尊厳を感じられないこともあるだろう。しかしそれは自らの主観によるものであって、仮にそれが本当だったとしても、それが正当であるという根拠はこの世のどこにも存在していないのである。「あそこの金持ちはフェラーリを何台も所有しているのだから、政府が我が家にも一台よこせ」というのがまかり通らないように、社会保障で最低限の衣食住を保証したり、先進国が後進国のインフラ開発をするのも、あくまでも人間の善性によって施されるものであり、それが貧乏人の権利にはならないのだ。

 様々な考え方、生きているだけで幸せなんだとか、お金は手段であって人生の全てではないだとか、そういうものは感性を広げるのには役立ったが、苦しみの総量を減らすことには全く約に立たなかった。そしてお金が無いという人生のなかで、そういった苦しみについては嫌というほど味わってきたが、逆にお金があることによる苦しみや不安などについては全く知る由もなかった。その事実に気づいたとき、私は、お金とは生き方のひとつなのではないか、と遂に気づいたのだった。

お金とは何だったのか

 人生とは、人間がこの世に生きていくことだ。誰もが豊かに、幸せになりたいと願う一方で、人生に正しいも悪いもないので、それが即ち正解であるとはならない。幸せの種類は決まっているが、苦しみは人の数だけある世の中で、苦しみもまた人生の一部なのである。

 お金は、あらゆるものを手に入れる手段であり、共通の言語でもあり、価値や結果の証明でもあるというのは最初に述べたとおりだ。そして人生は、お金を通して様々な幸福や苦しみ、経験へと還元される。お金の存在そのものが(それを持っていなかったとしても)、人間が社会に属している根拠にもなり、自分がどういう人生を送ってきたかをある程度確かめる指針にもなるのである。

 つまりお金とは、人生(人が生きている)ということだったのではないか――。

 それが良いのか悪いのかということは分からないし、だからなんだ、ということもないのだが……。植物、動物、この世の全て、この身体でさえも、全てが神の創りしものならば。技術の発展によって物が溢れる時代になったが、その根源である材料も科学も、人間があとから発見し応用したものに過ぎない。しかしお金だけは、人がゼロから生み出したと言えるのではないか。だからこそ、神社での捧げものは札束ではなく最上級の品々(現代ではお賽銭や玉串料などに代わっているが)だったのではないだろうか。

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この記事を書いた人

黒筆のアバター 黒筆 中卒フリーター

高校を三回中退し、精神科の閉鎖病棟に二回入院し、二十回以上転職した人です。最近は小説を頑張って書いています。

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