悟りとは、理解、気づくという意味である。仏教では、心の迷いが解けて永遠の真理を会得することを指している。
この悟りというものは、人生の至る所にきっかけがあり、そしてそれは苦行によってもたらされるものでもなく、始まりは「諦め」からきていることにあなたは気づいていただろうか。
諦めるということ
「諦める」という言葉は、現在では断念する、希望や見込みがないと思って断ち切るという意味で使われているが、語源となった仏教用語では、明らかにする、真理・道理を明らかにすることで、正しい決意や正しい努力ができるようにするためのものであった。
実は仏教の開祖であるブッダも、悟りを開いたきっかけは諦めによるものだった。ブッダは6年にわたる生死の境を行き来するような激しい苦行を続けたが、苦行のみでは悟りを得ることができないと理解した。そして苦行を諦め、スジャーターの乳がゆを口にした時、ようやく悟りを得ることができたのである。
何かがうまくいかないとき、そこには誤った願望や努力が原因としてあるのかもしれない。そういう時に、一度は諦める、執着を手放すことによって、失敗や物事の全貌が諦か(明らか)になるのである。
悟りがあるうちは、悟りは終わらない
私が初めて「これが真理だったのか!」と悟りを得たのはもう随分昔のことだったが、一つの真理によって人生が楽になるわけではなく、それから幾度も苦境に晒され、悩み抜いた挙句にまた新たな悟りを得ることを繰り返してきた。そして最近になって気づいたのは、悟りの境地というのは死ぬまで辿り着けない、いや死してなお辿り着けるものではないのかもしれないということである。
悟りがあるということは、迷いがあるということ。迷いがなければ悟りもないが、生きている限り煩悩とは切っても切り離せず、煩悩がある限り迷いはなくなることがないからである。
悟りというのは、悟ったら終わりというものでもなく、また本を読み学んだからといって悟りが得られるわけでもない。仏教では涅槃に入るために悟りを得る努力をすることを「心を修める」というが、学問を修めるともいうように、悟りは心の扱いを学ぶ「道」なのである。だから悟りに正解はなく、一人一人が各々に適した悟りを、人生という道なりに沿って得ていくものなのだ。
故に、宗教の教示も時には無意味になることがある。ブッダも、元々はこれはこうだと断定するような教えは説かず、一人一人の苦しみに合わせた、例え話や教えを説かれていた。もしもあなたに信仰している宗教があり、その教典の中に理解できないものや自身の価値観に合わないものがあっても、自分を責める必要はない。ピンとこないということは、それはあなたにとっては必要ないということだからである。
悟りは、自身の心を上手に扱うための、あなただけの教科書である。
悟りを得ても慢心せず、また悟りによって苦しむこともなく、学問を学ぶように楽しみながら生きたいものである。
コメント