先週、人生をかけてとある物事に対して準備していたのだが、それが失敗に終わったというか不幸な事故みたいなもので潰えてしまった。その時に私がまず思ったのは、「あぁ、私は中卒だから」ということだった。
その物事に対して学歴は全く関係無いのだが、私にとっては学歴が無いことが私が不幸であることの根源であるように感じていたのだ。私にとっての中卒とは、体の一部が欠損したような、足の一本が足りていないのと同じような感覚である。そしてそのせいでいつも、自分は他の人と比べて足りていない人間であるという劣等感と、周りの人に置いていかれてしまうという焦燥感に駆られていた。それはまるで、無いはずの足が痛む幻肢痛のようなものだった。
人それぞれが苦しみを抱えているということは、頭では理解していた。私の感じている欠乏感や苦しみが、誰かにとっては見た目の美しさだったり、生まれ育った家庭環境によるものだったりして、それぞれが何らかの事情を抱えてもがいているのかもしれない。でも、正直そんなのはどうでも良いとも思うのだ、私の苦しみは確かに存在していて、それが救いを求めていることもまた確かなのだから。生きて苦しんでいる私を、ただ助けて欲しいだけなのだから。
私は、自分の抱えている不幸を、いつまでも忘れてはいけないと思っていた。忘れてはいけないから、私が抱えているこの欠乏感を、苦しみを主張し続けているのである。あの時とても辛かったんだぞ、それに今も苦しめられ続けているんだぞと、握った拳がそのまま破裂してしまうくらいの怒りを、私は今でも抱え続けているのだ。そうしないと報われない気がするから。辛かった頃の自分が、無かったことにされてしまいそうで怖いのだ。私は幸せになりたい、過去にも誰にも縛られずに生きたい。でも、苦しかった過去の私は誰が救ってくれるのだろうか?私が私を覚えていてあげないと、過去の自分は本当の暗闇に閉じ込められてしまうのではないだろうか。
ところで何かを失敗したとき、その原因はどこかしらに間違いがあるか、そもそもの前提に何か問題があったかのどちらかだろう。しかし、私の失敗だらけの人生で何がダメだったのかどうしても原因が分からなかった。だからある人に、私が失敗する原因はなんだと思うと聞いてみた。するとその人は言った、「実は誰よりも、他人と自分を比較しているところじゃないかな」。
「あなたは心のどこかで、他人は自分よりも幸せに違いないと思っている。幸せも不幸も目には見えないのだから、今を精一杯生きなければ」ともその人は言った。それを聞いて私は怒りが湧いた。目に見えて欠けているものがあれば、それが目につくのは当然じゃないか。他の人にはあって自分にはないものを補いながら生きていくときに、それが他の人よりも苦しい道のりのように見えるのも当然のことじゃないか。そう言われるとまるで、私が精一杯生きていないように聞こえるじゃないか……。
その人のアドバイスを聞いてさらに数日落ち込んでいたのだが、その時に気づいたことがある。それは、何があっても生活は続いていくのだということ。この期間は落ち込んでいたから空白の期間だと、無かったことにはできないということだ。今日という日が続いて明日を作っていくのだから、その日その日をとにかく一生懸命生きていくしかないのだ。空白を作らないように、落ち込むときは一生懸命落ち込まなければならないのだ。
それと、他人と比較することをやめるのも無理だとも思った。なぜなら他人は鏡だから。鏡を見ずに人は生きていけないし、窓ガラスや水辺に映る姿が目に入ってしまうように、どれほど避けても完全に断つことは難しいものなんじゃないだろうか。
だから私は考えた。今日は落ち込んでいい日、今日は他人を恨んでもいい日、色々な何かを許す日を作っていくことで、少しずつ幸せに近づいていけるのではないかと。何かを許すことは勇気が必要なことだが、幸せになるということもまた勇気が必要なことであるからだ。勇気の使い方を学べば、人は自然と幸せになっていけるのではない
コメント
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最後、「か」抜けてるの見つけちゃったような気がす・・・
る・・・