いつの間にか、私は悪人になっていました。
言い方がいちいちトゲトゲしいとか、しかめっ面でにこりともしないとか。攻撃的で他人と歩幅を合わせようとしない、誰も関わりたいと思えないような人間に、私はなっていました。
誰かを傷つけたいわけじゃないのに、自分が抑えられなくて。他人に歩み寄りたいのに、それとは正反対のことをして。
こんなはずではなかった。五年前の私なら確実にこんなことはしなかったと思えるのに、一体どうしてこんなことになってしまったのか。性根が腐って悪に堕ちたのかとも思いましたが、じっくり自分の内面を観察してみると、どうやら今も昔も自身の本質というのは変わってはいないようです。じゃあ元々悪の気質を持っていたのが表面化しただけなのか、環境が私を変えていったのかとも思いましたが、よくよく考えてみると、何かが私を変えたのではなく、私が自分で変わってきたのだということに気がつきました。
五年前の私は、愛想がよくて年長者を立てて上司の話をよく聞く、品行方正で真面目な人間の類だったと思います。だけどそれは、他人と敵対しないことで自分を守ろうとする、弱さゆえの防衛行動に過ぎませんでした。今の私はというと、協調性のかけらもなく、近づいただけで怪我をするくらいの攻撃性を持っていますが、しかしこれもまた弱さゆえの防衛行動でしかありません。他人に迎合するのを辞めた代わりに、過度に自己意識を持つようになっていたのです。
人間である罪
この世にある善や正義というのは、ある程度の型が決まっていると思います。弱きを助け強きを挫く、などですね。
皆さんのなかにも、人に優しくしたいとか、友人を大切にしたいとか、ある程度の善の形というのを持っているのではないかと思います。
だけど、人生とはきれいごとだけではいかないものです。疲れていたら邪険な態度を取ってしまうかもしれないし、貧しければ他人を気遣う余裕などないでしょう。意識してか、無意識かに関わらず、人間というのは生きている限り罪を重ねる生き物なのです。
私は、自身が悪人になっていることに気づいたとき、ちょっとしたショックを受けました。善き人間であろうとしてきたはずが、いつの間にか私の手は真っ黒に染まっていたのですから。誰かを傷つけたり、道を踏み外したり。どうしようもなかった、仕方がなかったことだとしても、犯してきた罪は無かったことにはできません。歳を追うほどに重たくなっていく罪の十字架を、私たち人間はこれからも背負い続けなければならないのです。
最も重い罪は、現実を受け入れないこと
自分が悪人になっていることに気づいたのもショックでしたが、それと同じくらいショックを受けたのは、五年前と今の自分の悩みが全く変わらないということでした。
五年どころか、生まれてから今日にいたるまでずっと、幸せになるための努力を続けていました。努力と善行は、続けていれば報われるものだと思っていましたが、現実はずっと現実のまま変わらなかった。物語のように、貧乏が裕福になるとか、白馬の王子や救世主が現れるというような、目に見えた変化や幸せの形というのは、そもそも非現実的なものだったんですね。何歳になろうと、どこに住んでいようと、私の悩みや苦しみはいつの日も変わらないままだったのです。
これまでの人生のなかで、沢山の失敗や罪を重ね、その度に反省し教訓に替えるよう努めてきました。数えきれないくらいの失敗を重ねたのだから、その分だけ人格は向上し人生は明るくなってもいいように思うのですが、これもまたそう単純なものではないみたいですね。より善い人間になるどころか、以前よりも私の中に悪人の性質が増えているという事実は、赤ちゃんや幼児の頃は清く美しい魂を持っていたわけではなく、人は原罪を抱えて生まれてきていることを示していると思います。
歳を重ねるほど失敗と教訓が増えていくぶん、きっと人生は常に少しずつ好転しているのでしょう。だけどそれは、目に見えないほどの僅かな差であり、死ぬ間際になってようやくほっと一息つけるような、そんな程度の差なのだと思います。
人間は罪深い存在であるために、だから人生は苦しいままなのでしょう。しかしそれを受け入れなければ、もっと酷い苦しみが待っています。受け入れる、許すことを学ぶために、私たちは生まれてきたのではないでしょうか。
他人を変えようとしてはならない
私は割とフェミニズムに関心があるほうなのですが、近年の日本の男女の対立構造は良くない傾向であると胸を痛めています。
最近では、「先生の白い嘘」という性被害を描いた漫画の実写映画が話題になっています。内容がセンシティブなものでああるだけでなく、男性監督の女優への配慮に欠けた態度が非難されているのですが、私自身が女性であるからこそ、男性監督の失敗を女性たちが責め立てているという状況に疑問を感じているのです。
声を上げることは大事なことで、先人たちが声を上げ続けてくれたからこそ、女性たちの社会進出が成功し、雇用機会も少しずつ男女平等なものへと近づいてきています。しかし、人生と同じく社会がより良い方向に変わっていくのは非常にゆっくりで、今現在に問題視されていることが本当に解決されるのは、きっと何十年か、もしかしたら何百年も先の話になるでしょう。
だから、今の女性たちが感じている苦しみや悲痛な叫びは、現状を変えて当事者たちの心を癒すまでには至らない。未来の女性たちはきっと、今の女性たちの活動に感謝するでしょうが、一方で今の女性たちの苦しみは救われないまま残ってしまうと思います。そのような救いの無い社会だからこそ、人は他人と敵対し責めてしまう。
自分自身のことすら理解しきれていないのに、他人、それも男と女が互いを理解するのは難しいことです。難しいというより、男と女は理解し合えないものだと思います。
相手から理解されないから、相手を理解できないから責める、非難することは問題解決にはなりません。自分自身であれ、他人であれ、責めること、対立することは、戦争の火種にしかならない。男と女、どちらかがいなければ子は成せないように、私たちは戦うためではなく、手を取り合うために生まれてきたのではないでしょうか。
人は過ちを犯し、罪を背負う生き物です。他人の間違いを受け入れられない社会は、結果として自分自身の首を絞めることになります。他人を変えようとするのではなく、過ちや罪をも含めて受け入れること。理解できないままに、相手の存在を愛することが、巡り巡って自分自身の罪を許すことになるのではないでしょうか。
ここでは例として男女の対立を上げましたが、他人や社会を変えようとしない。自分自身を変えようとする人で溢れる社会になれば、真の平和が訪れるのではないかと思っています。
自由意志と罪
原初の人類であるアダムとエバは、善悪の知識の木の実を食べたことで罪を背負い、その報酬として死を迎えるようになりました。
神はなぜ、この木の実だけは食べてはいけないと言ったのか。それは、「自分にとっての何が善であり何が悪であるかを決めるのは神である」として神の忠実に従うか、それとも「善悪を決めるのは自分自身である」として自由意志を持つか、どちらの生き方を選ぶかを神がテストするための掟だったと言われています。
アダムとエバは、自分で勝手に決めてしまうという罪を犯し、神の示した方向を向かずに神の手から離れてしまうこととなりましたが、しかし見方によってはこれは自由意志を勝ち得たとも捉えることができます。また、死は報酬であるという言い方にも注目すべきでしょう。
私たちが人間である限り、私たちは罪を背負い、清いままで存在することはできません。だから、社会や他人が決めた「こうあるべきだ」という規範に沿って生きたとしても、清い存在にはなれないのです。あらゆる宗教でも、「神はこうしなさいと言った」という教義がありますが、それを追行したところで、しない者よりも尊い存在になれるかというとそうではないのです。
善悪の知識の実を食べなければ、私たちは今も神の一部のままで、個人としての存在を認められることはなかったでしょう。だけど、アダムとエバが自由意志を選択してくれたことで、今の私たちが存在しているのです。
罪人は非難すべき存在か、生きる価値のない存在なのかというと、そうではありません。盗みや人殺しなどの重い犯罪を行う人たち、彼らはその罪を学ぶために、その行為を選択したのです。そして、その過ちは本人だけでなく、それを見た人たちにも教訓や学びを教えてくれます。そうなると、犯罪は罪ではあるが、悪とは言えないという風に考えることもできる。それはつまり、善悪に正解はなく、自分自身で決めるものであるということを、指し示しているのです。
罪深き人間が救われるとき
聖トマス・アクィナスは、「神はより大きな善を生じさせるために悪が行われるのを妨げなかった」と言っています。
それは、罪に対しても同じことが言えるでしょう。
人間は日々、罪を重ね続けています。罪人だから価値が無いわけではない、善人だから尊ばれるものでもない。真っ白なキャンバスは確かにキレイですが、無垢であるということは、それ以外の存在を否定することに他なりません。人間は己の罪深さを知ることで、違う色を持つ他人の存在を認めることができるのです。
罪を背負って生きていく。だから人間は美しい。
過ちを犯すことを恐れずに、そして他人の過ちに寛容な社会を、築いていきたいものです。
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