2023年6月24日、私はセブ市から2時間北上した位置にあるダナオ市から、更に1時間以上モーターバイクで移動した山奥のとある村を訪れていた。私はセブ島留学の間に格別親しくなった先生がおり、その人の彼氏の実家に行ってきたのである。
セブ市内と山奥では、近所にスーパーマーケットがあるか以外はほとんど何も変わらない。なぜなら、セブ市内もほんの一部だけが日本の都市部のように発達しているものの、ほとんどは荒い道と似たような簡素な造りの家が建ち並び、仕事も生活もやることは変わらないからである。ただセブ島の山奥は思ったよりも道路が整備されており、使用頻度が少ないためかなんならセブ市内よりも平坦で快適かもしれない。しかし角度10%はありそうな急勾配を、長時間モーターバイクで3人乗りしていると、エンジンやギアが悲鳴を上げており、いつか止まってしまうのではないかと終始ドキドキさせられた。
そして、先生の彼氏の実家に到着した時のことである。どこからか流暢な日本語で「初めまして、こんにちは」と誰かが話しかけてきたのである。この時初めて知ったのだが、先生の彼氏のお兄さんが日本で元外国人労働者として5年間日本で働いていたのだという。フィリピンに留学してから初めて知ったのだが、フィリピン人が日本へ出稼ぎに行くには、お金・仕事・運の3つの面で実はとてもハードルが高い。日本で働くフィリピン人は、よほど優秀か、運が良かったか、不法滞在に近いグレーゾーンかのどれかなので、セブ島のど田舎で元外国人労働者と出会えるとは思いもしなかったのでとても驚いた。
彼はセブのカレッジで電気工事士の資格を取り、愛知県の工場で働いていたそうだ。帰国してから3年経つにもかかわらず、彼の日本語はとても流暢で、私たちは日本語で会話しながら彼の日本での思い出を沢山聞かせていただいた。
日本で最も印象に残っているのは、やはり食べ物が美味しかったことだという。何を食べても美味しくて、特にすき家のチーズ牛丼は日常の中でのご馳走だったらしい。また、退職前に社長さんが京都と東京ディズニーランドに連れていってくれたことが本当に楽しかったそうで、その話を何度も繰り返していた。家の玄関の扉の内側には、京都で買ったであろう舞妓と富士山が描かれた掛け軸が飾ってあり、とても日本を愛してくれていたことが伺える。
私は、日本の外国人労働者に対する不当な扱いについて質問してみた。狭い部屋で何人もで共同生活をしていることや賃金の安さ、労働時間や日本政府に対しても聞いてみたのだが、彼にとっては納得のいく生活で政府にも特に不満はなかったようだ。以前の私なら、彼の感想を聞いたとき「いや、そんなはずはない。苦しくなかったのなら、洗脳でもされていたに違いない」とでも思っていたかもしれないが、今なら分かる。私たちの基準で外国人の幸せを測ってはいけないのだということを。
フィリピンでは、家の中には1部屋か2部屋しかないのが普通で、子供が結婚などで家を出て行かない限りずっと一緒に雑魚寝が当たり前だし、アパートも4人以上で1部屋借りるのが普通で、逆に1人だと寂しくて耐えられないだろうと言う人も多い。また、フィリピンの賃金や仕事の選択肢を考えると、日本は天国かというほど恵まれているから、確かに日本で不当な扱いを受けたと感じる外国人もいるけれど、それは少数で実際は多くの人が現状に満足しており、日本の外国人労働者に対する扱いはそこまで問題になるほどではないのかもしれない。
彼はもっと日本で稼ぎたかったものの、母国での生活が恋しかったことと、30手前にして未婚であることへの焦りをきっかけに帰国を決意したそうだ。現在は美しい奥さんと2歳の息子と両親と、大好きなフィリピンの自然に囲まれ幸せに暮らしている(しかも奥さんは妊娠中で、何もない田舎だけど毎日幸せでいっぱいらしい)。日本での生活も楽しかったが、一つだけ合わなかったのは日本の静かな環境だったという。
「フィリピンはとてもうるさいところですネ。毎朝鶏が鳴いていて、家族で狭い場所でワーワー暮らして、近所の人が毎日遊びに来て、どこからかうるさい音楽が鳴り響いてきて。そういうのが日本はないネ」
と彼は言った。また、日本人は恥ずかしがり屋で目も合わせないから、友達になりにくいのが寂しく感じたそうだ。確かに、フィリピンは人との触れ合いが密接でとても暖かい。自然豊かで、家畜やペットも自由にのびのびと暮らしている様は、とても平和的である。
彼の弟である、私の先生の彼氏も日本へ行きたいと英語で話していたが、彼は隣で日本語で「まぁこの人には難しいでしょうね」と淡々と話していた。彼の弟は既に27歳でまだ大学生、日本で外国人が就労を開始する年齢制限は32歳。また日本に行くには6ヶ月間の日本語学習と高額な渡航資金を準備し、何十社もの面接を受ける必要があるので、大学を卒業し準備を終えた頃には年齢制限を超えているだろうとのことだった。彼自身も、「私も機会があるならもう一度日本へ行きたい。どこでも好きな国へ行っていいと言われたら、迷わず日本を選びます。でも現実的にはもう一生日本へ行けることはないでしょう」と寂しそうに言った。
フィリピン国内で家族を養っていては、日本への飛行機代すら貯蓄することはできない。彼は平均的な外国人労働者と比べてもとても日本語が堪能だったが、こんな田舎では日本語を使うことはないし、教える機会もないからそのうち日本語も忘れていくだろうと語っていた。
「でも、私はこのうるさいフィリピンが大好きですネ。帰ってきて良かったし、こんな美しい奥さんにも出会えた。私はとても幸せです」
こんな田舎まで来てくれてありがとう、そう言って彼は奥さんと手を繋ぎながら、私が帰る時に静かに手を振ってくれたのだった。
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