サルトルの「自由の刑」とは何だったのか

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 サルトルは、世界や存在には意味が無いのだと、だからこそ人間は根源的に自由なのだと言いました。しかし自由とは自分自身があらゆる行動の意味を決めなければならず、そこには絶対的な孤独と責任が伴います。それは人間に大きな不安を与えるとともに、そこから逃れられない状況をつくるため、サルトルは「人間は自由の刑に処されている」と表現しました。

目次

人生の意味とは何だったのか

 私はずっと、前提として人生には”意味がある”というふうに考えてきました。日本に生まれたこと、生まれ持った身体能力や学問的な能力、辛かった経験などなど。この経験はこういう学びを得るためだったのか、日本人でこういう社会的立場だったらこんなふうに世の中が見えるのか、とかね。

 しかし、そうやって意味を”与えられる”のは、自分が能動的に生きていたからなんですよね。「会社で成功してやる」とか「メジャーリーグに出場する」みたいな夢や目標も、結局は自分の内側から出たものではなく、まず先にそれらが意味を持っている社会があったからこそ、自分の能力や環境などの外的要因によって”選択させられた”わけです。そう言うと「自分で決断したことだから違います」と言う人がいると思うんですけど、違うんですよ。あなたが自分の人生や行動に意味を求めたからこそ、”理由としての夢や目標”が選択肢に上がったというだけなんですから。

 私はずっと、夢を持って生きてきました。間違った社会を正したいとか、自分らしくありたいとか。その時々で理由は違いましたが、常に”完成した理想”がありました。その理想が、自己実現した”私”になることだったんですよね。今の”私”は不完全だから、知識や経験というものを通して完全なものにするんだと、それが人生の意味なんだと思っていました。

 だけど社会経験がついて精神的に落ち着いてくると、今まで頑張ってきたと思ってきたことが、実は”同じ場所でもがいていただけ”だったことに気づくわけです。水の中で溺れたときは、もがくよりもじっとしていたほうが体が浮いて楽に息が吸えるというのは、多くの人が知ることだと思います(実際は背泳ぎしたほうがいいようですが)。なので人生も同じようにじっとしてみると、「人生って、生きていることにすら意味がないほどに、シンプルな無だったんだなぁ」という事実が見えてきたのでした。人生を複雑にしていたのは、がむしゃらにもがいていた自分自身だったのです。

 それに気づいたとき、私は何かに頑張る理由を見出せなくなりました。この世には私という人間が生まれるよりも先にあらゆるものが存在していますが、それに勝手な意味を見出しているのは人間であり、本来は全てのものに意味はなくそこに介入する余地もありません。なので私が何をしても無意味だし、私がいてもいなくても世界は変わらないのです。それならこの人生に、意味はないと思いませんか?

実存は本質に先立つとは何だったのか

 サルトルは、「実存は本質に先立つ」とも言っています。人間にはあらかじめ定められた本質(目的や意味)はなく、まず存在するという事実があって、そこに自分で意味や目的を見出していくということです。

 私はこれに対し、まず環境や外的要因があって、それが本質(魂)を浮き彫りにするのだという解釈をしていました。これは、「人間には本質(魂)があり、生まれてきた意味を持つ」というキリスト教的な宗教的価値観が混ざっていたためです。

 例えば私は日本という国に生まれ、東日本の地域で育ちました。そのため価値観の根底には寒冷地特有の意識みたいなものが根付いていますし、西日本で生まれ育った人とは根本的に相容れないようなものがあると感じています。ですがそうした外的要因による反応や結果も私自身(魂)の一部だと思いますし、だからこそ実存(環境や外的要因)が”私”という本質を築いているというふうに思っていたのです。

 しかし先述したように、この世にはあらゆるものが存在していますが、それらに意味はありません。なので私が日本人で東日本に育ったということにも意味はなく、”無意味なものに本質は無い”のです。

 つまり実存とは”私の制御を超えた存在(方法)”であり、本質とは”自分の制御を超えた方法(存在)によって作られる”ということだったのです。

 ”私”はただの副産物であり、本質から派生した二次的なものであり、だから常に”私”がしないことを選択する余地がある。

  私は、まず自分というものがあって、それが行動や選択に導いていくと思っていましたがそうではなかったということです。自分の心や欲求に付き従えば、それが導いてくれると思っていましたが、それすらもない完全なる無だということなのです。

アンガージュマンとはなんだったのか

 サルトルは、人間は予め定められた本質を持たず、自らの選択と行動によって自己を形成していく存在だと考えました。この実存主義を実践するためには、未来に向かって現在の自己を抜け出し自覚的に自己を創造していくことが求められます。なぜならこの世のあらゆるものに意味はなく、過去の自分と比べることでしか意味を見出すことは不可能だからです。そして彼は、実存主義の実践を通して、さらにそれが社会や世界に対して、そして人類の未来に対して責任を負う「社会参加」「政治参加」であるべきだということで、アンガージュマンの概念を提唱しました。

 かつての私は、例えば「私に文才があるのは、文章を通して世の中に貢献する使命を与えられたからだ」と考えていました。これも、才能というものを使う”理由として、意味を見出していた”ということになります。しかし人生は無意味であり、じぶんのやることにも意味がないのだとしたら、なぜ社会や世界に対して貢献しなければならないのでしょうか。

 これに対し、私は「自由の刑」に対する”報い”が、社会参加ということだと考えています。

 あらゆる行為に対し、良いことにも悪いことにもそれ相応の報いが未来に返ってくることを”業(カルマ)”といいます。私たちは自由の刑に処されていますが、それに対しても常にカルマが発生しているのです。

 自由の刑を受ける過程で、私たちは良くも悪くも必ずアクションを起こしています。そのなかには、よかれと思ってやったことでも悪い結果や影響をもたらすものもあるでしょう。例えば、友だちによかれと思ってしたことが、かえって相手を傷つけてしまったという経験をした人は少なくないはずです。そしてその友だちからは、傷つけられたことに怒って縁を切られてしまうかもしれません。そうすると、相手に直接お詫びや報いることはできなくなってしまいますが、代わりに他の人には二度と同じことをしないという教訓にはなったはずです。しかしそうして得た知恵や経験を活かしたり、他の人に伝えてあげることは、あなた自身のカルマを報いることになります。これが、アンガージュマンの本質なのではないでしょうか。

まとめ

 サルトルのいう「実存は本質のうえに先立つ」というのは、主体(魂)は自分の制御を超えた方法で”形づくられる”ということでした。

 ”私”は二次的なものでしかなく、常に”私”がしないことを選択する余地があります。それゆえに人生は無意味であり、自由なのです。

  しかし自由の刑は、常に未来に向かって現在の自己を抜け出し自覚的に自己を創造していくことが求められます。またその過程で、”刑”に報いる手段として、積極的な社会参加や社会貢献(アンガージュマン)が求められるのです。

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この記事を書いた人

月光のアバター 月光 中卒フリーター

高校を三回中退し、精神科の閉鎖病棟に二回入院し、二十回以上転職した人です。最近は小説を頑張って書いています。

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