私は今日、哲学の一部である倫理学と、更にその一部である「ケアの倫理」に関する講演を聞きに行った。人はなぜ弱者をケア(世話や配慮、気配り)すべきなのか、それはどういう原理なのかというような内容だったのだが、そこで私が疑問に感じたのは「そもそも、なぜ弱者をケアすることが当たり前の概念になっているのか」という点である。本来ならば、老人や子供、障害者などの弱者は淘汰されても仕方がないのではないだろうか。
なので今回は、「人に対するケアと、それ以外に対するケアの違いは何か」「利己的な人間は悪か」「道徳とは何か」という疑問を解消するために、ケアに関する例と説明をまとめていく。
ケアをすべきなのはなぜか
老人、子供、障害者、外国人etc.。我々は弱者を前にした時、電車で席を譲るだとか、年老いた親の介護をするだとか、困っている人がいれば手を差し伸べ、その人がたとえ血が繋がっていなくても、何の見返りがなかったとしても、援助することが当たり前という考えのもとで生きている。それはなぜかというと、人間の本質は傷つきやすいものであり、相互依存の中で生きているからである。
他人をケアする理由として、哲学者ギリガンは「他者を傷つけないことが、結果として自分を傷つけないことになる」「自分が助けてもらいたければ、他人を助けなければならない」「だから、たとえケアしたくない人(見知らぬ人や、自分にとって価値があるとは思えない人など)に出会っても、他人をケアしなくてはならない」と言い、ノディングスは「他の人から切り離され、孤独になりたくないのならば、他人をケアしなくてはならない」「他人をケアしたくない気持ちと、ケアすべきだという気持ちの両方があったのならば、そのすべきだという思想は無意識下で感じている自分の理想の姿だから、自分にとっての理想的な人間になるためにも他人をケアすべきだ」と述べている。
しかし実は、ケアという概念は人間や動物などの生き物に対する行為にとどまらず、生物以外のあらゆる存在に対して可能性を孕んでいるのである。
ケアとは何か
そもそもケアとは何か。
フランクファートは哲学の問いを、次の三つの領域に区別する。その領域とは、何を信じるべきかに関わる認識論、いかに振る舞うべきかに関わる倫理学、そして「何についてケアすべきか」を問うケアの領域だ。これらの領域はそれぞれ独立したものだとみなされるとともに、倫理学が自他の関係に焦点を当てたうえで、その正邪や道徳的責務を取り上げるのにたいして、ケアの領域は「何が私たちにとって重要なのか」に関わる領域とみなされる。つまり、「私たちは道徳の要請と何が自分にとって最も大切かということとを区別する」。
安井絢子「ケアの倫理の通時的・共時的位置づけ(P3)」より
フランクファートの主張によれば、人は人生の中で偶然によってケアすべき対象と出会い、ケアが始まると、他のものとは代えがたいその関係に独特の結びつきが生じ、その関係は交換不可能なかけがえのない価値を帯びるのだという。つまり、その人の人生の意味そのものと言えるものと出会い、それのケアを続けることによってその人の生は筋が通り、統合性を帯びてくるというのだ。
そしてそれは、世の中で正しいと言われていることと、その人にとっての正しさとは別問題であり、その対象は人なのか物なのかそれ以外なのかも分からないというのである。つまり、仕事であったり、学問や趣味などというのもケアの対象になりうるのだ。
倫理的な正しさとは
ある人にとってケアする対象が人以外の存在、仕事だったり趣味であったとする。その場合、それらに対するケアを優先し人に対するケアを疎かにしたならば、それは果たして悪なのだろうか。
例えば、研究者が何かに対して研究をしている。その人にとってはその研究対象が人生の全てで、目の前に困っている人や助けを必要としている人がいてもその人らをケアする余裕がない場合、彼らを全く手助けせずにただひたすら研究をするというケア(研究対象に対する世話)のみを行っていたならば、その人はケアという行為を行っているにも関わらず、その対象が人ではないというだけで、その人が老人になったときに他人に手助けを求める資格は剥奪されてしまうのだろうか。
私の場合、毎日が生きるのに精一杯で、たとえ電車の中でお年寄りや病人を見かけても、席を譲った方がいいという意識はありつつも、自分の体力を温存する方を優先し実際に席を譲ってあげようという気持ちは微塵も湧いてこない。しかし、電車で席を譲らない若者や、仕事ばかりで家庭を顧みない父親などは、果たして非難されるべき存在なのだろうか。それは、道徳性が欠如した行為なのだろうか。
利己的で社会性がない人
電車で席を譲らない若者や、仕事ばかりで家庭を顧みない父親などの存在は、一般的に利己的で社会性がないと見なされ、容易に非難される。しかし、それらは悪なのか?いいや、否である。
利己的で社会性がないことは悪いわけではない。ただ、社会から孤立しがちになる。多くの人は孤立を恐れるから、社会性を持ち他人によくあろうとするのである。
人や動物に対するケアをいちばんに考えられる、それらをする余裕があればベストではある。しかし、それだけなのだ。別に余裕がないならば、あえて他人を顧みる必要はない。本来、人の生き方というのは自由なのだ。
道徳とは何か
人々が、善悪を弁えて正しい行為をなすために、守り従わねばならない規範の総体。
デジタル大辞泉
道徳とは、人として正しく生きる道のことを指しているが、しかし実はそれは言葉通りの意味でしかなく、他人を助けなければいけないとか、他人を傷つけてはいけないということさえ何も書かれていない。道徳とは、自分の心に従って善を尽すこと、ただそれだけなのではないだろうか。
自分がそれは善であると信じるならば、それは道徳に乗っ取られた行為なのではないか。だから、電車の中で席を譲らず自分のことを優先する若者も、妻に散々罵られても仕事しかしない旦那も、要介護の老人を見殺しにすることでさえ、それはその人にとっては正しいことなのではないか。
人は誰しも、絶体絶命の苦しい状況や、死にたくなるほどの不幸に見舞われて、「誰でもいいから助けてほしい」と一度は神頼みをしたことがあるのではないだろうか。しかし、その後たまたま幸運な出来事があったとしても、実際に神が手助けをしてくれた経験のある人なんて、誰一人いないのではないか。神は誰も裁かないし、ただ見ているだけで助けてもくれない。そこからもわかる通り、道徳とは誰かが決める物ではなく、自分自身で見つけるものなのではないだろうか。
私はこれからも老人に席は譲らないし、子供の面倒を見たり優しくしてあげることもないし、病人だからといって誰かを特別扱いすることもないだろう。もしかしたら、未来では誰にとっても優しい人だと思われるような人間に変わっているかもしれないが、現状では私自身の人生で手一杯なのだから仕方がない。そういう利己的な人間だから、散々周りに迷惑をかけまくって、人はどんどん離れていく。でも、私にとってはそれが善なのだ。誰かに愛されることよりも、何よりも私は自由を愛しているのだから。
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