最近、TikTokを通じて同い年のパキスタン人と親しくしている。
彼はパキスタンに住んでいて、英語は話せるけど簡単なものしか理解できない。なので言いたいことの半分くらいしか伝わってはいないけれど、お互いに親愛と尊敬を持って接しているのが感じられるので、言葉は通じなくてもそれなりに良い関係を築けていると思っている。
彼との交友をきっかけに、私はパキスタンについて色々と調べるようになった。その延長線で、片道一時間かけてパキスタン料理レストランを訪れたりもした。そして実際にパキスタン人と言葉を交わしてみて、色々感じることがあったのでまとめてみようと思う。
結局は人それぞれ
パキスタンはそれほど治安がよくないうえに、アフガニスタンやインドなどどと国境を面していることでテロや紛争の発生率が高く、一般的には危険な国だと認識されている。また日本国内では、車の盗難や密輸に関わっているのはパキスタン人やインド人が多いため、人種に対してのネガティブなイメージも少なくない。それにTikTokで投げ銭乞食のようなことをしているのもパキスタン人が中心なので、始めは私も少なからず拒否感があった。
しかし実際に色々な人と話してみると、人それぞれなんだなぁとしか言いようがなかった。
○○人だからといって悪い人であるとは限らないし、○○国だから全てが善人であるということもあり得ない。それはパキスタンでも、日本でも同じことだろう。確かに文化や教育などの違いにによって、考え方や常識が異なっていて、こちらの国では犯罪になることもあちらではOKなんてこともある。最近では移民問題がネット上を騒がせているが、そういったニュースになるような外国人は一部の存在であって、多くの人は私たちと変わらないごく普通の人であるということは、心に留めておく必要があるのではないだろうか。
どうすれば犯罪を抑止できるか
私の行ったパキスタン料理店は、林と田畑に囲まれたところにポツンと佇んでいた。最寄り駅は一応新幹線停車駅だが、そこまでは徒歩で一時間以上かかる。店主のパキスタン人は来日三年目で、今でも毎夜日本語を勉強し、日本文化に対しても意欲的だったが、お店がそんな場所にあるために人との交流は少なそうだった。車がないため徒歩での移動しかできず、三年経っても観光地どころかその街から一歩も出たことがないという。
料理店には他にも3人くらい従業員がいたが、日本語はほとんど話せず会話も消極的だった。そんな閉鎖的な環境で、お客さんも少なくお金が稼げなくて、犯罪に走ってしまう人もいるのは当然のことではないだろうか。日本語の話せる店主ですら、少しズレているというかどうしたらいいか分かっていないような部分もあって、何かあっても頼れるのは同郷の似たような人たちしかおらず、危うげな面があった。
生まれた国を離れ、異国の地で生きることは、大変な苦労とリスクを伴う行為である。全てが自己責任だし、本来ならその責任が全うできない時点で自国に帰るべきだ。しかしそうであっても、異国の地に残ることを選択する人たちがいて、そのしわ寄せはその地域の日本人たちにやってくる。トランプ大統領のように有能な指導者が現れない限りは、たとえその外国人がズルくて卑怯であったとしても、我々のような一般人は共生していくしか選択肢がないのである。怖いから、嫌いだからと彼らの存在を見て見ぬふりをしていれば、それは癌のように深刻な問題へと発展していくだろう。だから私たちは、自分たちの生活を守るために、否が応でも外国人たちの母国の文化や価値観を学び、こちらから積極的な交流を図って、門戸を開かなければならないのではないだろうか。
ネイションとは集団幻覚のようなものにすぎない
私は北関東の田舎育ちで、社会人になるまでは学校のALT以外に外国人と出会ったことがなかった。しかし今では、そんな田舎町でもコンビニや工場で外国人が働いているのが当たり前になり、少し治安の悪い地域には外国人集落のようなものもみられるようになっている。
外国人という異物が入ってくるようになって、当たり前だったはずのものが壊れ、日本固有の文化やナショナリティーが失われていくような危機感は常に感じていた。かつて日本にいた外国人は、日本が好きで言葉や文化を学ぶのに熱心で、同調しようとしてくれる人たちばかりだったから安心だった。しかし今では、他所から来たのに自分たちの当たり前を押し付けて、嫌ならあんたたちがどっかに行けというような態度の人ばかりのような気がしている。しかしそんな経験を通じて得たのは、彼らに対する不快感や嫌悪感だけではなかった。それは自分の国、日本という国の在り方や文化に対する疑念をも浮かばせたのだ。
例えば日本人はかつて、木造の家に住み着物を着て暮らしていた。しかし現代では、洋服を着て鉄筋コンクリートのマンションに住んでいる。日本家屋や着物に憧れを抱いても、ほとんどの人が現代的な物や生活を選択するのは、伝統や文化に価値がないからではなく、それらの維持管理にコストがかかり不便だからである。しかしそれは、伝統や文化として育まれた営みが、それ自体に価値があるから発展したのではなく環境や歴史的要因が絡まった”結果”でしかないと考えれば、当たり前の結末だといえるのではないだろうか。
地元で行われている祭りを、何百年も続いてきた伝統だからとその意味や本質を理解せずに手放しで称賛し、何も考えずに参加したり見物している人は多いだろう。それと同じように、何千年も前から先祖が暮らしてきたからという理由で、日本には日本人が住むべきであり、国土や国家は日本人が守らなければならないと短絡的に考えている人も多いに違いない。しかし考えてみてほしい。中東やアフリカでは恣意的に引かれた国境のせいで今でも紛争が多発し、バラバラになった民族は帰属できる場所を求めてさまよっているということを。私たちが自分のものであると思っているものに、本当に所有が許されているものは一体どれだけあるのだろうか。
他人はみんな、外国人と変わらない
家族だから、血がつながっているからお互いを理解できるという思い込みで、血を見るような事態に発展した人はこの世に五万といるに違いない。それだけでなく、友人や恋人、職場の人間関係などでもトラブルにあった経験は誰もが持っているはずだ。それらのトラブルの原因は全て、自分が相手を思い通りにしたいと考えているか、相手が自分を思い通りにしようとしているかのどちらかに分類されるだろう。そしてそこには必ず、自分が相手を理解していると思うか、相手に理解してもらえると思っている傲慢さが隠れている。
同じ国に住み、同じ言葉を話していても、他人とはみんな外国人のようなものである。育った環境が違えば、常識や価値観も違っていて、相手の全てを理解することなど到底不可能なことだからだ。同じ人種同士ですら外国人と対話しているような感覚なのに、肌の色や国が違うからといって、それ以上どんな隔たりがあるというのだろう。
例えばT大を目指していた高校生が受験に落ちたとき、それまでの人生をT大のために全て捧げてきたからこそ、少なからずは「もう人生終わりだ」という気分になるだろう。しかし大学に合格することだけが人生の全てではないし、大学に行けなかったからといってこれからどんな人生を生きるかは沢山の選択肢があるはずだ。「もう人生終わりだ」という気持ちになるのは、自分で自分の視野を狭めていたからであり、いろんな選択肢や人生があることに気づけば、その高校生だってまた生きる気力が湧いてくるはずである。
それと同じように、今の生活が苦しくなったとき、それが外国人という人が原因であったとしても、視野を広げれば私たちの人生ももっと豊かになれるはずだ。それは侵略を許すということではなく、無駄なプライドを捨てるということである。先程の例の高校生が社会人になったあとも「自分はT大に落ちたけど、合格できるほど勉強したし、その実力はあったんだ」というプライドを持ち続けていれば、職場の人から「プライドだけ高い、使えない人」という評価を受けるのも想像に難くないだろう。だから私たちも、「誇り高き日本人」というプライドを捨てて、一人の人間として目の前の人物に向き合う時代がやってきたのではないだろうか。
グローバリズムの終焉
企業や国家は、グローバリゼーションをヒト・モノ・カネの国境を自由に超えるプロセスであると捉えて、これを礼賛・推進してきた。しかし、恩恵を受けたのはごく一部の資本家やエリート層だけであり、結局は彼らが世界中からカネを集めるための言い訳に過ぎなかったということに、多くの人は気づき始めているのではないだろうか。
資本主義は「中心」と「周辺」で構成され、「周辺」つまり、いわゆるフロンティアを広げることによって「中心」が利潤率を高め、資本の自己増殖を推進していくシステムだった。そしてグローバリゼーションとは、「中心」と「周辺」からなる帝国システム(政治的側面)と資本主義システム(経済的側面)にあって、「中心」と「周辺」を結びつけるイデオロギーでしかない。しかし資本主義にとってのフロンティアを失った今、総中流社会だったはずの日本も堕ちて、資本家以外の世界中の人たちが貧しくなろうとしている。
主権国家システムが支持されるのは、それが国民に富を分配する機能を持つからだった。しかしその機能を喪失して、資本主義も民主主義も構造的に維持が不可能になった現代では、それらが崩壊し新しい時代が来るのも時間の問題に違いない。そのときには、国家という存在は消滅し、真のグローバリズムな社会が誕生しているのではないだろうか。
結論としては、私たちは過去から受け継がれてきたあらゆるものに対し、維持・固執しようとするのを止めなければならない時代へと向かってきているのではないだろうか。そして本当に大切なものは、常に身近にある、ほんの些細なものでしかないということに気づき、あらゆるものに心の目を開くことが大切になってくるだろう。
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