本格的に小説を書き始めた約三年前くらいから、ブログの執筆がほぼ途絶えていました。それは、小説の創作活動に忙しいというのもありましたが、ブログというものへの向き合い方が分からないと感じていたのが正直なところで、要するにブログから逃げていたというのが実態に近いです(汗)。
ですが二週間前に新たな小説を完成させてから、とりあえずしばらくの間は暇ができたというのもあって、これからどうやってブログを続けていくかを色々考えてみたのでまとめてみようと思います。
なぜブログを書かなかったのか
そもそも私がブログを書き始めた理由は、この世界(人生)はもっとよくなるはずという想いからでした。極端に言えば、この世界か、あるいは今の自分が間違っていると思っていたということです。正しくなれば生きやすくなるはず、正解を見つけたら究極の理想郷に辿り着けるはず。その一心で、世界の真理を追究する手段として文章にすることを選んでいました。
小説を書き始めた理由も同じです。小説家になりたいからでも、書かざるを得ない物語を持っているからでもなく、エッセイやコラムという形では真理に辿り着けなかったから、新たな手段として選んだというだけでした。
私が小説を書き始めた当時、エッセイなどでは平面的な表現の仕方しかできないということに悩んでいました。それまでAの視点、Bの視点、Cの観点、Dの観点など、色々な方向から文章をまとめたり、あらゆる哲学者のいい話を抜き取ってまとめたりということをしていましたが、それでも世界の真理そのものを表現するには物足りないと感じていたんですね。世界にはAもBも、CもDもある。ならそれを全部まとめて書く方法はないかと考えたときに、登場人物は何人でもいてもよくて、時代や時間もいつでもよくて、未来に行ったり過去に行ったりもできるという、物語の持つ自由さに気がついたわけです。
そして実際に書いてみると、そこには私の想像していた以上の自由があると分かりました。まず価値観の自由ですね。登場人物のaさんもbさんもそれぞれの思想や人生を持っていていいし、それを読む読者もそれぞれ自由な感想や意見を持っていていい。作者には一つの世界を創造する使命はあっても、みんなを一つの方向に持っていく必要はないのです。むしろ、してはいけないと言った方が正しいかもしれません。なぜなら、エッセイやコラムと違って、物語は作者の自我や思想の押し付けが見えた途端につまらなくなるものだからです。
あとは世界の自由も感じました。人間が鳥のように羽を持っていてもいいし、あるいは地底で暮らしているのもいいでしょう。いつの時代を生きてもいいし、何をしていてもいい。世界にこうあるべきという姿は無く、作者や読者が見たい世界を見ていればいいのです。そしてそれが、正解なのです。
それらに気づいたとき、私は呆然としてしまいました。なぜなら私は、今まで世界や人生には正解(真理)があると思って生きてきたからです。そして、それに辿り着くために選んだ小説の創作によって、それは間違っていたと気づいてしまったからです。
今までやってきたことは何だったのか
この世の真理、この世界には正解が無いという真理に辿り着いてしまった私は、創作者としてこれまで築いてきたものはなんだったのかという壁にぶち当たりました。今までやってきたことは無駄だったようにも感じられるし、これまでと同じことを同じ熱量で頑張ろうという気にも到底なれませんでした。とりあえずは、生み出し始めたものには最後までやり遂げなきゃ、という責任感で小説を書き遂げました。それでも答えは出ず、曖昧な気持ちのまままた次の作品を書いて、終わらせました。
しかし小説を書いていくなかで、私は新たな視点を獲得し始めていたんですね。今まで書いてきたものは、無駄ではないが極地には至れていなかったのだ、と。どういうことかというと、私はどういう物語が創作物として面白いのかを考え続けたときに、それは個人的なものを極端に追求することで、却って普遍的な状態になったときだという結論に行きつきました。
例えば最近、”ちいかわ”がすごく流行ってますよね。でもちいかわって、丸い目にωみたいな口と、丸っこいフォルムで、割とどこにでもいそうなゆるキャラの特徴を持っているじゃないですか。しかしドラゴンボールの孫悟空みたいに、オレンジの服にトゲトゲのヘアスタイルという奇抜な恰好をしなくても、誰もがそれをちいかわであると認識できています。なぜかというと、キャラクターのバックボーンにあるストーリーや価値観といったものを、我々がしっかり認識できているからなのです。じゃあなぜそれが認識できるのかというと、そこに強烈な個性があるから。個性というのは、例えば友情をとても大切にするところとか、日常の些細な幸せを大きな喜びに感じられるところとか、作者のナガノ先生にしか見えない世界というものを極めているということだと私は思います。そしてその個性を、誰が見ても似たように感じられるように普遍的なものに変換したのが、ちいかわという作品なのではないでしょうか。
つまり、私は始めから普遍的なものを書こうとしたことで、そこには個性やら作者の芯といったものが通っていなかったのでした。だから、私自身もそこに意味を感じられないし、あまり他人にも刺さるものではなかったんですね。
これからはどう描くか
面白い作品というのは、個人的なものを極端に追求したものだとしたら、それはどんな方法であれ描けるはずです。なぜなら、ナガノ先生のエッセイ的なマンガも面白いからです(Xでは毎回30万近い、いいねがついています)。
私は壁にぶち当たったとき、私にはエッセイを書く資格なんて無いとすら思い、ブログを消去するかまで考えていました。ですがこれからは、小説も書くし、ブログも書き続けたいなと思っています。そしてそれは、個人的なもの、何を感じたかとか、どういう世界の見方をしているかというものを極めたものでありたいです。
そのために、私はこれまで極めてきたものは何だったのかと改めて考えてみました。私はずっと、「資本主義打倒、日本を初の社会主義に」(中国やソ連のあれは社会主義じゃなくて権威主義・独裁なので一緒にしないでください)という理念を持って、創作したり生きてきたんですね。これを聞いて、「思想が偏ってる人だ」と勘違いしないで頂きたいのですが、よくよく考えてみるとその思想の根幹にあったのは、「人は誰にも支配できない」ということだったんですよ。私は高校を中退したときに、社会の求める正しい人間でいなければ弾き出されるのだ、という体験をしたのですが、そのとき同時に「それでも私は、誰かの言われるがままには生きたくない」とも思ったわけです。自分の思う正解を選びたいと思った、だからこそ真理というものを追い求めていたということになるのですが。
でも真理というものは、ひとつではなく、人の数、見え方の数だけ存在していました。だから私の真理の追究という道は絶たれましたが、代わりにこれからは「人は誰にも支配できない」ということを追求したものを私は書いていきます。








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